フェード・アウト

 彼は、ランプのほやの上でたばこに火をつけ、緑色のかさをランプに載せた。すると、わたしたちの顔は、快い薄暗がりの中に沈んだ。彼が開いた窓の縁に腰掛けると、彼の姿は、外のやみからほとんど見わけがつかなかった。わたしは葉巻を吸った。外では、かえるが、遠くから甲高く、やみ一面に鳴いていた。友人は、その間に次のように語った。

「「ほや」と言うのは、ランプの火をおおうガラスの筒ね。その上に緑色のかさが載っているの。」明美先輩が解説してくれた。
「ここはとても写実的ですね。ランプの明かりでそれまで見えていた顔が闇に沈んでしまう、その様子が目に浮かびます」とあたし。
「ランプのかさは、明るさをコントロールするから、光がやわらかくなったのを快い薄暗がりと言うのかな?」と若葉先輩が問い掛けた。
「そうね、「快い薄暗がり」の快さは、ものの輪郭がぼけて見えるのと、その時の気分も表しているのね。」と明美先輩が応じた。
「薄暗がりだから、「彼」が少し離れた窓の縁に腰掛けると、彼の姿が闇に中に消えるのね。」と真登香先輩が言う。
「「わたし」が葉巻を吸ったのは、落ち着いて友人の話に耳を傾けようという気持ちの表れね。「わたし」は葉巻なのね。葉巻の方が刺激が強いんでしょ。かなりの喫煙家なのね。」と煙草にはうるさい(?)若葉先輩が言う。どんな知り合いが煙草を吸うんだろう?
「それもあるけど、「わたし」の方が裕福なんじゃないのかな。それをさりげなく示しているのよ。葉巻の方が高そうだから。」と明美班長が補う。
「かえるの鳴き声だけが聞こえる。二人は「彼」の思い出の世界の中に入っていく。」
「演劇の暗転みたいね。」
 明暗を上手く利用しているんだ。読み手である私たちも、とても自然で穏やかに友人の話に入っていける。

コメント

  1. すいわ より:

    今回の舞台装置はランプとタバコ、ですね。
    まずランプ。「わたし」と友人の位置関係に着目したのですが、舞台になっている部屋は居間、ローテーブルにソファでしょうか。テーブルの上に置かれたランプはカサを載せたことで部屋全体が薄暗がりになる。友人から見てソファに座った「わたし」の顔は薄暗がりの中、その表情がわかる程度には明るさがあるでしょう。対して友人はランプの置かれたテーブルより離れた、テーブルより高い位置の窓の縁に腰掛ける事で「わたし」からその表情を見て取ることが出来ない。「外のやみからほとんど見分けがつかなかった」、話しやすいですね。
    次にタバコ。武井さんの落ち着いて友人の話を聞こうという気持ちの表れに賛成で、喫煙の経験がないので何とも言えないのですけれど、一般に葉巻は火を着ける時点から手間隙がかかり、時間をかけて嗜むもの、つまり、友人の話をじっくり聴こうという事なのだと思いました。淡埜さんの裕福さを示す、と言うのも確かにわかるのですが、この場面では友人はランプから火を取っているので紙巻のタバコ?を自分で選んでいますよね。彼は一刻も早く高揚した気持ちを鎮静させるべく喫煙し、この場でのタバコの役割の違いを対比させたのかしらと思いました。「わたし」が葉巻を吸い始める頃には友人はタバコを吸い終えていますよね。
    開いた窓から聞こえるかえるの鳴き声、「わたし」の燻らす葉巻の紫煙も、友人の開けた窓からの空気の流れに揺らめく。ムーブメントを感じます。彼の手で開けられた窓はこれから話そうとしている過去への扉を開けるようでもありますね。
    友人が話し出す舞台は調ったようです。

    • 山川 信一 より:

      すいわさん、長いコメントありがとうございます。二人の位置関係を想像することで物語に奥行きが出ました。
      また、友人の煙草の役割は説得力があります。ただ、煙草と葉巻は吸う習慣の問題もあります。恐らく友人にはそれが無かったのでしょう。淡埜さんの言うように経済的に少し差があったとも考えらます。友人の今の暮らしぶりを何となく暗示しているのかもしれません。

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