第百四段 ~斎宮という人~

 昔、ことなることなくて尼になれる人ありけり。かたちをやつしたれど、ものやゆかしかりけむ、賀茂の祭見にいでたりけるを、男、歌よみてやる、
 世をうみのあまとし人を見るからにめくはせよとも頼まるるかな
これは、斎宮のもの見たまひける車に、かく聞えたりければ見さしてかへりたまひにけりとなむ。


 昔、特にこれといった理由がなくて尼になった人がいた。(尼になったのでそれまでとは違って)姿形を地味にし(「かたちをやつし」)たけれど、祭の華やかさに好奇心が湧いたのだろうか、賀茂の祭を見に外出したのを、男が(見かけて)、歌を詠んで贈った、
〈あなたを、世をはかなんで尼となった方とお見受けしました。すると直ぐに(「からに」)、海女なので海草を食わせてほしいと期待されることですよ。(私に目配せすることを期待しています。)〉
これは、斎宮が祭見物をなさる車に、このように申し上げたので、見物を途中で切り上げてお帰りになってしまったと言われている。
うみ」には、〈海〉と〈憂(し)〉が、「あま」には、〈海女〉と〈尼〉が掛かっている。〈海女〉から海草の〈海松(みるめ)〉を出し、「(海草)」を食わせよ(「めくはせよ」)と言う。それに〈目配せ(めくわせ)しろ〉を掛けているいる。技巧の凝らされた歌になっている。
 第六十九段で男と逢った斎宮の後日談である。斎宮の性格が想像される。気の多い女性であったのだろう。尼にはなったものの、俗世のことも忘れられない。姿形は変わっても心は俗人のままだったのだ。直ぐに、正体がばれてしまう。そんな浮ついた態度だから、物好きな男につけ込まれてしまう。しかし、さすがに恥ずかしくなったのだろう。尼になったのだから、男の誘いには乗れなかった。それで早々に逃げ帰ってきたのだった。誘った男は、例の男とも別の男とも読める。読者の想像に任されている。
 作者は、斎宮を特別な悲劇のヒロインとして描いていない。むしろ、血の通った凡人として描いている。こうして、読者の斎宮への勝手な思い入れを排している。人間は、矛盾した様々な面を持っているのだ。一面的に筋を通して性格付けしてはならないということだ。

コメント

  1. すいわ より:

    ここまで凝った歌を詠む人だと、件の男なのだろうと思えます。そして斎宮、幼い。世間的道理から尼になったようではありますが、自らというより、周りから言われて、そうしたものなのね、と尼の装束を着ただけという雰囲気です。本人の心映えはそのまま、無邪気に祭り見物に出掛ける。斎宮として世間から隔絶され育った故に年相応の分別のつかない、魂の入っていない人形のような存在。歌が届いて本人ではなく、お付きの者が「これは大変な人に見つかった」と退散したのではないでしょうか。それぞれの読者が見たい側面から見ようとした結果、女の像がふわふわと上手く結べなくなる事を筆者は狙ったのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、歌の出来具合からすれば、あの男ですね。逢うことはかなわくても、せめて目配せだけでもして欲しかったのでしょう。男はその意味では一貫しています。
      問題は斎宮です。この際おつきの者の存在は度外視しましょう。斎宮にもはや男への恋心はなく、世間体を気にしたので逃げ帰ったとする方が自然です。恋は冷めるものですから。
      英語の冗句に、lecherとは、A man who prefers girls who don’t no(know) too much.であるとあります。斎宮はそんな女だったのでしょう。
      『遠き落日』を読むとと、野口英世がいかにふしだらな人間かがわかります。友人からお金を借りまくっては女を買います。しかし、「度」や「きまり」を気にしていては、あの超人的な努力はできなかったのでしょう。
      人間を一面的に見てはならないということです。

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