第四十六段 ~親友~

 昔、男、いとうるはしき友ありけり。片時避らずあひ思ひけるを、人の国へいきけるを、いとあはれと思ひて、別れにけり。月日経ておこせたる文に、
「あさましく、対面せで、月日の経にけること。忘れやしたまひにけむと、いたく思ひわびてなむはべる。世の中の人の心は、目離(めか)るれば忘れぬべきものにこそあめれ」
といへりければ、よみてやる。
 目離るとも思ほえなくに忘らるる時しなければおもかげに立つ

 男には、たいそう誠実な(「うるはしき」)友がいた。いつも(「片時避らず」)お互いに思い合っていたのを、(国司に任命されて)地方に行くのを、たいそう悲しく思って、別れてしまった。その友が月日を経てよこした手紙に、
〈ただただ驚くほど(「あさましく」)、顔を合わせることなく、月日を経てしまったことだなあ。あなたが私のことをお忘れになってしまったのだろうかと、ひどくつらく悲しく思っております。世の中の人の心は、疎遠になると(「目離るれば」)、忘れてしまうに違いないもののようですが・・・。(「あめり」は〈あんめり〉の「」の無表記。「めり」は推定。)〉
と言っていたので、詠んでおくる。
〈あなたと疎遠になったとも思えない上に、忘れる時がまったくないので(「時し」の「」は強意の副助詞。)、あなたはいつも目の前に浮かんできます。〉
 これは、友情と言うよりも同性との恋である。異性との恋は、これがあると一層、味わい深くなる。物事は、何でもそうだけれど、比較の対象があってこそ、理解が深まる。異性との恋を大切にしたいなら、同性とも恋をすべきだ。性にこだわることはない。作者はこう言いたいのだろう。
 最近は、LGBT+など性の多様化が言われている。しかし、それへのこだわりが過ぎるのではないか。あまりに細かい分類はかえって人を不幸にしはしまいか。名付け分類することよりも、現実を認め合えばいいのではないか。

コメント

  1. すいわ より:

    唯一神のもとにあるヨーロッパ文明の、流入前の日本は、あらゆる事どもに対して極めて寛容に物事が受け止められていたように思います。恋愛もしかり、実におおらかですよね。頭で考えてどうこうするものでもなく、言葉でその種別を括ってどうにかなるはずもなく、 当人ですらコントロール不可能なのに当事者以外のものの介在する余地など、そもそもないのでしょう。この当時の(今も?)結婚の成立が女本人でなく、後ろ盾となる親の地位なり資産なりが大きく影響する事を考えると(二十七段)、ひたすら純粋に相手を思う、結婚という枠に縛られる事のない同性同士の恋の有り様を示したかったのではないでしょうか。
    そして今、新婚旅行に日本を選ぶ同性カップル、案外多いそうです。

    • 山川 信一 より:

      元来の日本文化は、大らかです。それが儒教などの中国文化や欧米の文化によって、ゆがんでしまった面があります。
      古典は、それに気付かせてくれることがあります。特に偉大な知性によって書かれた古典は。

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