第四十一段 ~妻の姉妹~

 昔、女はらから二人ありけり。一人はいやしき男のまづしき、一人はあてなる男もたりけり。いやしき男もたる、十二月のつごもりに、うへのきぬを洗ひて、手づから張りけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざも習はざりければ、うへのきぬの肩を張り破りてけり。せむ方もなくて、ただ泣きに泣きけり。これをかのあてなる男聞きて、いと心ぐるしかりければ、いと清らなる緑衫(ろうそう)のうへのきぬを見いでて、やるとて、
 むらさきの色こきときはめもはるに野なる草木ぞわかれざりける
武蔵野の心なるべし。

 昔、二人の姉妹(「女はらから」)がいた。一人は身分が低い(「いやしき」)男で貧しい男を、もう一人は高貴な身分の(「あてなる」)男を夫として持っていた。身分が低い男を夫として持っていた女は、十二月の末(「つごもり」)に、参内の時着る正装の上着(「うへのきぬ(袍)」)を洗って、自分の手で(「手づから」)張った。夫に好意を表そうとする気持ち(「心ざし」)は素晴らしい(「いたし」)けれど、そのような卑しい仕事(「わざ」)も習わなかったので、袍の肩を張って破ってしまった。(「破りてけり」の「」は意志的完了〈つ〉の連用形。)どうしようもなくて(「せむ方なくて」)、ただ泣くばかりだった。これをあの高貴な男が聞いて、ひどく気の毒に思ったので(「心ぐるしかりければ」)、たいそう美しい(「清らなる」)緑色(六位の官人がが着用する色。)の袍を見つけて、贈るとしたときに、
〈紫草が芽吹いて色が濃い時は、目も遥かに見渡される野に生えている草木の区別がつきません。(それと同じように、愛する妻の姉妹であるあなたも同様に愛しく思います。)〉
これは、あの名歌「武蔵野」の心であるに違いない。
 その名歌とは、古今和歌集の次の歌である。
紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る
 この歌は、紫草の素晴らしさを引き合いにして、あなたを愛するゆえにすべてが美しく見えると言う気持ちを詠んでいる。
 好意はどう示すかが難しい。かえって、相手のプライドを傷つけることもあるからだ。ここでは、名歌を踏まえて伝えている。実にスマートな仕方である。ただ、妻の姉妹への好意は多少危険なところがある。道を踏み外さないとも限らない。関係者はそれぞれどう思っているのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    師走の寒空の下、一心に慣れぬ手つきで夫の上着の手入れをする女。緑色の上着を洗う、その白い手は冷たい水に赤くなり、暖めるべく吹きかける息まで凍りそう。
    新年の出仕に間に合うよう、せめて小ざっぱりした衣装を身に付けて貰いたくて見よう見真似で始めたものの、やり付けない手仕事、上手くいかず、それどころか、なけなしの衣装を破いてしまう。本来であれば、下女のする仕事、女の今の暮らし向きの倹しさが伺われます。きっと実家では何不自由ない暮らしだったでしょうに。そんな様子を知ったら、力にならずにいられない。
    「私の愛しき妻の大切に思う妹であれば、妻同様、私にとっても大切な存在なのですよ」と。
    紫草は根を染料にしますよね。見晴るかす野の草は一面に緑色に見えるけれど、紫草のその根(心)の尊さは目に見えるものでなくてもゆかしいものだよ、どんなに倹しい暮らしであっても心の気高さは失われぬよ、と言っているようでもあります。でも、、、先生の解説の最後、「妹の家、大変なんだって?君、何か見繕って送ってやったら?」「そうね、そうさせて頂くわ」と姉から送って寄越したものではない、、そこまでは考えませんでした。

    • 山川 信一 より:

      全体的にはとても心温まるいいお話です。でも、この物語の文脈に置かれるとにわかに別の意味を持ってきてしまいます。
      葬儀の日にさえ恋を仕掛ける人がいるのですから。すいわさんがおっしゃるように、姉に頼んだわけでもないようですし・・・。
      アブナイアブナイ。

  2. らん より:

    先生、これは情でなくて愛なのですか❓
    えーーって思いました。

    • 山川 信一 より:

      もちろん「情」でしょう。ただ、それがいつまで「情」に留まっているかどうかは、保証の限りではありません。
      この男も意識的に恋を仕掛けたわけではないでしょう。
      でも、可哀想というのは惚れたってことですから、いつ恋に発展するかわかりません。

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