第三十三段 ~優しい嘘なら要らない~

 昔、男、津の国むばらのこほりに通ひける女、このたびいきては、または来じと思へるけしきなれば、男、
 あしべより満ちくるしほのいやましに君に心を思ひますかな
返し、
 こもり江に思ふ心をいかでかは舟さすさおのさしてしるべき
 ゐなか人のことにては、よしやあしや。

津の国、むばらのこほり」は、摂津国莵原の郡のことで、現在の兵庫県芦屋市あたり。「むばら」は〈いばら〉のことで、とげの生えた植物。今でこそ高級住宅地として有名だが、当時は「むばら」の生えた田舎だったのだろう。男は、そこに通う女がいた。その女が、(男の心を疑って)、今回帰ってしまっては(「このたびいきては」)、再び来ないだろう(「または来じ」)と思っている様子(「けしき」)なので、それを見て男が次の歌を詠んだ。
〈葦の生えているあたりから満ちてくる潮のようにいっそうますます(「いやましに」)逢うたびに君への思いを増すことだなあ。〉
あしべより満ちくるしほの」のは、「いやましに」を導く序詞。女への思いをたとえている。「あしべ」「しほ」と、「津の国むばらのこほり」の風景を詠み込んでいる。
 男は女に気を遣ったのだろう。男の優しさである。ただ、女は男の言葉を素直には受け入れなかったようだ。こんな歌を返す。
〈表には見えない私の心の奥底、つまり、あなたがもう来てくれないのではないかと恐れている私の心をどうやって(「いかでかは」)、舟進めるさおをさばいてさすように、それと指して知ることができるだろうか、できない。〉
こもり江」は〈葦が茂って隠れて見えない入り江〉で、女の隠れた気持ちをたとえている。「いかでかは」は、疑問の副詞。ここでは反語。「舟さすさおの」は、「さして」を導く序詞。「こもり江」「舟さす」さお」は縁語。「しるべき」の「べき」は可能の助動詞。
 これは、男が女の心を雑に受け取っていること、女の心を細やかに捉えようとしていないことを暗示している。女は、男の言葉とは裏腹に自分が大切にされていないことを察するのである。言葉は心の容れ物である。どんなに巧みな言葉でも、心が伴っていなければ文字通り受け取れない。MISIAのEverythingの「やさしい嘘ならいらない 欲しいのはあなた」のフレーズを思わせる。愛するがゆえに嘘はわかるのである。
 ただ、語り手は、女の歌の出来を問題にしている。〈田舎の人の言葉としては、うまいのだろうか、まずいのだろうか(「よしやあしや」)。〉と。女の歌は男の歌と対照的だったのだ。つまり、男の歌は、言葉は巧みだが、心がこもっていない。それに対して、女の歌は、真実の心を表している。しかし、言葉が練れていない。序詞、縁語を多用してはいる。しかし、歌は、技巧を凝らせばいいわけではない。表現がしつこいのである。これをどう評価すべきか、つまり、〈田舎者なんだからこの程度で及第点かな?〉と言う。

コメント

  1. すいわ より:

    「むばらのこほり」、何やら最初から刺々していると思ったら、女の胸に、チクチクと刺さっている。男の渡りのある、会うこともない女への嫉妬、去って戻らないであろう男への恨み。
    「あなたは潮が満ちるように私への思いは増すのですと仰るけれど、潮はいずれ引くもの、あなたは上手く、私をあしらった(葦)つもりでしょう、でも、私の浦(恨む心)が満ちるばかりです、私の気持ちを知ろうともしないで」という気持ちなのでしょう。嫉妬という、心に凝り固まった岩を抱えて、女の小舟は今にも沈みそうです。
    男は女の扱いに慣れているのでしょう。しれっと上手い歌を詠ってますね。
    筆者は田舎女は、まぁ、こんなものだよね、と終始一貫した態度ですが、だったら関わらないでやって欲しい気もします。男の収集癖?困ったものです。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんの鑑賞によって、物語の世界に奥行きが出ます。「あし」と「うら」の含みも納得がいきます。なるほど、女なら、別の女の存在も想定するのでしょうね。
      筆者はいつも京の貴族の男の立ち位置から眺めていますね。地域差別意識を隠そうとしません。この意識は普遍的なもので、今だってあります。それへの皮肉でしょうか?

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