第二十四段 ~その一 単身赴任~

 昔、男、かたゐなかにすみけり。男、宮仕へしにとて、別れ惜しみてゆきにけるままに、三年来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に、「今宵あはむ」とちぎりたりけるに、この男来たりけり。「この戸あけたまへ」とたたきけれど、あけで、歌をなむよみていだしたりける。

 昔、男が辺鄙な田舎(「かたゐなか」)に住んでいた。男は、宮仕えをしようと思って、(愛する女と)別れを惜しんで都に行ったままになって、三年やってこなかったので、女は待ちわびていのだが、そんな時にたいそう熱心に(「いとねんごろに」)言い寄ってくる男に(心折れてしまい)、〈今夜逢おう〉と約束した日に、元の男が帰ってきた。男は、〈この戸を開けなさい。〉と叩いたけれど、女は開けないで(「あけで」の「」は〈ないで〉)、歌を(戸の隙間から)差し出し(「いだし」)た。
かたいゐなか」と田舎を強調しているのは、「宮づかへ」の理由になっているからだ。あまりに田舎だったので、仕事がなくやむを得ず、都に出稼ぎに行ったのだ。今で言う単身赴任である。「別れ惜しみて」とあるのだから、二人は愛し合っていたのだ。ところが、男は三年間音沙汰無い。女は寂しくてならない。〈やはり都会は誘惑も多いから、あたしのことなど忘れてしまったのだわ。〉そんな風に思ったのだろう。
 そんな時に熱心に言い寄ってくる別の男がいた。たぶん、女は魅力的な女なのだろう。いい女は放っておかれない。初めは抵抗していた女も、寂しさにとうとう心折れてしまう。別の男を受け入れる約束を交わしてしまう。ところが、別の男と会うと約束した日に夫が帰ってくる。三年間連絡もしなかったけれど、女を忘れなかったのだ。どんな事情があったのかまではわからない。いろいろあったとしても、やはりこの女がいいと思ったのかもしれない。とにかく帰ってきたのだから、女を忘れられなかったのだ。
 男は、当然女が自分を待っていると思っている。ところが、戸が閉まっていて女は開けてくれない。〈なぜ開けてくれないのか。女は変わってしまったのか。〉男はショックを受けたことだろう。しかし、男は身勝手と言えば身勝手だ。三年間も連絡もしないのに、女は自分を待っているものと思い込んでいるのだから。
 一方、女は、夫を見限って別の男と結婚しようと思ったので、夫に合わす顔がなかった。ただし、そのことは無かったことにしてしまうこともできた。女がそうしなかったのは、男に嘘をつきたくなかったからか、女の心が揺れていたからか、三年も連絡してこなかった男に腹を立てていたからか。ともかく逢う前に、思いを歌にして差し出したのだ。
 逢って話し合えばいいようなものだけれど、それでは真意が伝わらないと思ったのだ。言葉は長さではない。いくら言葉を尽くしても、真意が伝わるとは限らない。事実、言葉は当てにならない表現手段だ。リンゴの味も、友達の顔も、ラジオ体操も言葉で表すことができない。ただし、一方で相手に致命傷を与えることもできたりする。要は、使い方次第なのだ。歌は短くとも、他者の心を動かす力がある。女は歌の力に賭けたのである。ここには、歌への信頼がある。

コメント

  1. すいわ より:

    学生の時に『風に立つライオン』という曲を巡って女友達と、遠方へ長期間旅立って(赴任して)戻らない恋人を待つ、待たない論議をした時のこと。一年なら待つ、3年はぎりぎりかな、10年、無理でしょ、と。10年だと、満場一致で「待たない」え、あなたなら待つって言うと思った、と当時から変わった子認定されていた私。「待たない。10年もあるなら看護婦(士)になって行くわ」やっぱり変わってると笑われた事を覚えております。
    さて、伊勢物語の時代ではそうもいかない。距離と時間を軽々と越える手段が今のようにはない、まして、女は独立して生計を立てる術もないとなると、殊の外、心細い思いで待っていた事でしょう。男は男で、ただひたすらに、生活の為、身を粉にして勤めて、さぁ、ただいま、と帰ったら家に入れて貰えない。
    お互いに「何故」と「もし」で心が埋め尽くされています。「もし」<「何故」な男の方は今すぐにでも会って直接問い詰めたい事でしょう。でも、「何故」<「もし」な女は、複数ある「もし」の中に自分に言い訳したい事がある分、直接会ってしまったら、一番伝えたい、会いたくて待ち侘びていた、と言う気持ちを押しのけて待たされた事の恨みつらみをぶつけかねない。だから敢えて顔を突き合わせる事をせず、歌にする事で伝えようとしたのでしょう。思い合っているのに噛み合わない、辛いですね。

    • 山川 信一 より:

      人間は完璧じゃありません。だから、理想と現実の狭間で悲劇が起こります。
      どこまで待つか、これは昔も今も替わらない現実です。
      現代の女性は、ニューヨークに単身赴任した恋人をいつまで待てるのでしょうか?
      そう言えば、『木綿のハンカチーフ』という歌謡曲がありました。
      普遍的なテーマです。

  2. すいわ より:

    『浅茅が宿』の話を思い出したのですが、この二十四段をベースとして時代背景を合わせて膨らませて書かれたのでしょうか?多分、七百年くらい、書かれた時期に隔たりはあるかと思うのですが。
    『哀愁』っていう映画も何となく再会の悲劇が似ていて、、
    洋の東西を問わず、私たち人間は「恋する惑星」に生まれ落ちてしまったようです。作者はその普遍性を捉えて著した、並大抵の才能ではありませんね。

    • 山川 信一 より:

      一般的には、直接の関係は言われていません。しかし、テーマは普遍性があるので、同じような話になるのでしょう。
      『哀愁』にしてもそうですが、現代のトレンディドラマだって作れそうです。
      作者は『伊勢物語』にあらゆる恋のパターンを書き込んだのでしょう。貫之ならそうします。

  3. みのり より:

    先生、こんばんは。お久しぶりです。この段はなんとも皮肉なが悪い悲しい場面ですね。男にも何か事情があったのかも知れないし、でも、待っている女の方も辛いし。なんでこのタイミングで帰ってきたんでしょうね。タイミング悪すぎ。ジエンドなのか乗り越えることができるのかは愛の深さになりますか。

    • 山川 信一 より:

      みのりさん、コメントありがとう。確かにタイミングが悪すぎですね。一日ずれていたら、こんなことにならなかった。まさに愛が試されています。
      でも、人生ってこういうこともあります。現代だって、これと同じようなシチュエーションは十分考えられますよね。決して昔話じゃありません。
      あなたならどうしますか?そう思って読んでもらえると嬉しいです。では、続きをお楽しみください。

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