第二十段 ~心変わり~

 昔、男、大和にある女を見て、よばひてあひにけり。さてほどへて、宮仕へする人なりければ、かへり来る道に、三月ばかりに、かへでのもみぢのいとおもしろきを折りて、女のもとに、道よりいひやる。
 君がため手折れる枝は春ながらかくこそ秋のもみぢしにけれ
とてやりたりければ、返りごとは京に来着きてなむもて来たりける。
 いつのまにうつろふ色のつきぬらむ君が里には春なかるらし

 心変わりをどうするかがテーマである。恋心もいつかは移ろう。どんなに熱く燃え上がってもいつかは冷める。この現実を認めないわけにはいかない。恋はいつか愛に変わるとも言う。しかし、恋は恋のままではいられないのか。
 男は、奈良に住む女を見知って、言い寄って(「よばひて」)、ついに思いを叶えた。(「あひにけり」の「」は完了の助動詞〈ぬ〉の連用形。)さて、しばらく一緒に暮らしていたが、男は宮仕えをする人だったので、京に帰ることになり、その道で、三月ほどに、楓が紅葉しているのがたいそう目を惹いたのを(〈おもしろし〉はパッと目を惹く。)折って、女の元に、(紅葉に付けて)道より贈った歌。  
 あなたのために自ら折った枝は、春のままで、こう秋のように紅葉してしまいましたが・・・、それはまるで私のあなたへの思いが表れたかのようです。(「こそ」・・・已然形の係り結びは、以下の文に逆接で続く。ここではそれを用いて、言外にある思いを暗示している。)
と詠んで女に贈ったところ、返歌は男が京に行き着いてから来たのだった。(女は男の歌の真意を吟味し、自分の歌を詠むのに時間を掛けたのだろうか。あるいは、男をじらそうとしたのだろうか。いずれにしても、賢い女性である。)
 楓は春なのにいつのまに赤い色がついてしまっているのでしょう。(「つきぬらむ」の「らむ」は現在推量の自動詞。)あなたのお里には春は無いらしいわね。あなたは、そんなことをおっしゃいますが、秋しか無いのね。楓のようにあなたの心も移ろって、もう私を飽きてしまわれたのですね。(〈秋〉に〈飽き〉を掛けている。)
 男の歌は、取り繕いの感がある。女はそれを見透かしている。巧みに自分の思いを伝えることで、男の気持ちをつかんでいる。歌は、男女の仲をこうして取り持つ。第十四段、十五段の陸奥の女の歌とは、対照的に洗練されている。男女の仲でも、欠かせないのはリスペクトである。それは、優れた歌を作ることで生まれる。
 歌は、男女が上手くやっていく最良の言葉である。この点、残念なことに現代の男女はその言葉を欠いている。

コメント

  1. すいわ より:

    恋の花の散り際も、こうも美しいと、きっとそれぞれが心の中に持っている宝物箱の中で密やかに輝きを失うことなくあり続けるのでしょう。別れにあたり、傷付かない訳はない、でも最大限に相手を思いやって言の葉を送る、受け取った相手もその心を汲んで、まことしやかな恨みがましいことは言わない。
    メッセージで「バイバイ」とカットアップしてしまうのとは格の差があり過ぎます。
    十四、十五段の話が出ましたが、育った環境のちがい、というのはなかなか埋まらない、というのも事実ですね。共感できるか、というのは付き合う上で大きい要因だと思います。

    • 山川 信一 より:

      当時、歌は言葉の力を最大限に引き出す表現だったのでしょう。
      だから、いつも歌を作り続け、やり取りする必要がありました。実践的に歌の力を鍛えるためにです。
      一方、現代はそうした努力をどこでしているのか。短歌は復権しないでしょうか?

      • すいわ より:

        他者に対して真摯に向き合う事を現代人は避けて通りがちで、コミュニケーションの根本を欠いてしまっているように思うのですが(傷つきたくないから?)青い鳥マークのSNSが持て囃されるあたり、まだまだ言葉の将来は暗くないと信じたいです。英語に力入れるのも分かりますが、まずは母国語。あと、小さい人たちの話を大人がしっかり聞く。聞いてもらえた人は、きっと人のお話聞くのも上手になると思うのです。案外、小さい人の方が、短歌、上手かもしれません。

        • 山川 信一 より:

          学校では夏休みに毎日短歌を作る宿題を出しました。日本の知的財産を身につけて欲しかったからです。
          短歌は傷つかないための知恵でもあると思います。傷つかないでコミュニケーションを取りたかったら、これを活用しない手はありません。

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