第十六段 ~その一 熟年離婚~

 昔、紀有常といふ人ありけり。三代のみかどに仕うまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしく、あてはかなることを好みて、こと人にもにず。貧しく経ても、なほ、むかしよかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床はなれて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へゆくを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、いまはとゆくを、いとあはれと思ひけれど、貧しければするわざもなかりけり。

紀有常」という固有名詞が出てくる。これまでは、人名の固有名詞は一切なかったので、違和感を覚える。これは前段とは話題が変わったことを示している。旅の話は終わったのである。ここからは再び京での話になる。
 紀有常は、三代の帝に仕え申し上げた。「仕うまつり」は謙譲語で帝への敬意を表す。そのため、〈時にあう〉つまり、時流に乗って栄えたのである。しかし、その後は、時代が変わり時勢が変わってしまったので、(つまり、藤原氏の世になったので)、「世の常の人」(=並の人)ほどの力もなくなる。この人の人柄は、心がきれいで、優雅な(「あてはかなる」)ことを好んで他の人とは似てもいなかった。貧しい日々を送っても、なお、昔羽振りがよかった頃の心のままで、世間の普通のことには気にもかけなかった。
 純粋で世間知らず。いい意味でいつまでも子ども。こういう人はいつの時代もいる。しかし、本人はいいかもしれないけれど、関係者の中には困る人もいるはず。妻こそ被害者の第一だろう。
(そんな夫に嫌気がさしたのだろうか、)長年慣れした親しんできた(「年ごろあひ馴れたる」)妻が、しだいに寝床を共にしなくなって(「やうやう床はなれて」)、ついに尼になり、姉がそれ以前に尼になっていたところに行くことになった。こうした場合、当時は尼になって出家するのが常套手段だったのだろう。熟年離婚である。寿命を考えれば、今更という気もするけれど、妻からすれば残りの人生、だからこそ、もうこれ以上一緒にいたくないという心境なのだろう。これは昔も今も変わらない。
 男は、今まで本当に仲睦まじいこともなかったが(「こそ」~「けれ」は下に逆接で続く。)、もうこれでお別れだと出て行く(「いまはとゆく」)ことになると、たいそう悲しく思ったけれど、貧しかったので何もしてやることができなかった。今さら妻に愛は感じなくても、申し訳ないという情はあるのである。

コメント

  1. すいわ より:

    紀有常、今で言うところの「天然」な人ですね。
    妻、「これ以上、一緒にいたくない」のでしょうか?本当にそうなら、落ちぶれた段階でお別れしていても良さそうな気もします。仏の道に入るのに支度もしてやれなかったなぁ、と思ってくれるあたりに充分、愛情を感じますが。

    姉 「 ねぇ、あなたの所、最近どうなの?」
    妹 「まぁ、相変わらずよ、今始まった事じゃないから。でも、これから年をとって、先細りの生活、どうしたものかしら。」
    姉 「 だったら、あなた、私の所に来たら?」
    妹 「でも、、あの人一人で置いて出てしまったら、どうなることか」
    姉 「散々苦労をかけられて、まだそんな事、言って、、だったら、少しずつ、一人になれさせてみたらどうかしら。」
    妹 「そうね、私がここを出れば一人分のたつきも減るし、幸いあの人、性格だけは良いから、もしもの時はきっとお友達が助けてくれるわ、、」
    紀有常に長年寄り添ってきた妻なら、こんな感じの人のような気もします。そう思う私が有常並みに呑気なのか、、

    • 山川 信一 より:

      熟年離婚を望むのは、妻が圧倒的らしい。そのあたりの心理は、男の私には今一つわかりません。
      すいわさんの鑑賞が参考になります。

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