第十段 ~母親の見栄~

 昔、男、武蔵の国までまどひ歩きけり。さてその国にある女をよばひけり。父は異人(ことびと)にあはせむといひけるを、母なむあてなる人に心つけたりける。父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。すむ所なむ入間の郡、みよしのの里なりける。
 みよしののたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる
むこがね、返し、
 わが方によると鳴くなるみよしののたのむの雁をいつか忘れむ
となむ。人の国にても、なほかかることなむやまざりける。

 この段も旅の続きとして読める。男は武蔵の国まで惑い歩いて行った。(失恋の痛手は失せたのだろうか、)それで(「さて」)その国の女に言い寄る。「よばふ」は〈呼ぶ〉+〈ふ〉(継続)から、求婚する、言い寄るの意味なる。父は他の人(「異人」)と結婚させよう(「あはせむ」)と言ったけれど、母は高貴な人(「あてなる人」)と結婚させたいと心に決めていた(「心つけたりける」)。(それと言うのも、)父はごく普通の身分の人(「なお人」)であって、母は藤原家の出身だった。それで娘は高貴な人に嫁がせたいと思ったのだ。
 母は自分が名門の出身であることを誇りに思っていた。今でもこういう人がいる。昔も今も変わらない。母は今の境遇に不満を持っていたのだろう。夫からすれば、プライドの高い嫌な妻だったに違いない。父は身分相応の男と結婚させたいと願った。しかし、母は、娘を高貴な人に嫁がせたいと願った。「さてなむあてなる人にと思ひける。」は、「さてなむ」は、〈そいうことで〉の意。その点、この男は願い通りの男であった。「婿がね」は〈婿の候補者〉の意。母は、何とかしようと、娘の気持ちを代弁して自分が歌を贈った。藤原家出身の女にふさわしい行為である。自分がいかに教養があり、男の結婚相手の親にふさわしいかを示そうとしたのだろう。いつの時代も娘は母の分身である。「すむ所なむ入間の郡、みよしのの里なりける。」とあるのは、歌の意味を補佐するための記述である。歌の意は次の通り。
 み吉野の田の雁もあなたを頼りにしてひたすらあなたの方に寄ることを願って鳴いているようだ。つまり、私も娘のあなたに心を寄せていると言うこと。「鳴くなる」の「なる」は聴覚推定の助動詞。〈鳴いているように聞こえる〉の意。歌に技巧は凝らされているけれど、題材はいかにも田舎じみている。
 それに、婿の候補は次のように返歌する。
 私の方に寄りたいと鳴くように聞こえる(「鳴くなる」)み吉野の田んぼの雁を私は忘れることは無いだろう。「いつか忘れむ」は反語表現。〈決して忘れない〉の意。つまり、私を頼りにしているあなたの娘を忘れませんよということ。母の歌に調子を合わせ、期待に応える歌を贈っている。実に調子のいい男である。失恋の痛手が癒えれば元どおりの男なのである。語り手はそれを「人の国にても、なほかかることなむやまざりける。」と評している。男一般の悲しくも滑稽な性である。一方、恋の痛手は恋することで癒やすしかないとも読める。

コメント

  1. FランJK より:

    はじめまして。投稿見させて頂きました。どれも面白くて、今まで苦手だった古文に少し興味が湧きました。これからも投稿楽しみにしてます。

    • 山川 信一 より:

      何よりのお言葉、ありがとう。これからもあなたのご期待を裏切らないように書きますね。
      どうぞ続けてお読みください。

  2. すいわ より:

    都の想い人に対してと明らかに情熱の差を感じます。当時にしたら、まずは親がコンタクトを取って、という事なのでしょうけれど、まるで娘の「顔」が見えてこない。母の必死さがまた滑稽ですし、その歌への返歌が相手の歌を汲みつつ、でも、きれいにフォーマットに沿った内容のように感じます。雁が仮に見えてきて仮の彼女?のような。
    隅田川を渡る前までの彼は何だったのだろう?と思えてしまいますが、さて、心の空白は埋まるものなのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      恋における〈母〉の存在がテーマです。娘の好みの多くは、母のそれと似ています。いや、同じだと言ってもいい。
      だから、娘の恋人は、母に気に入られることが必要なのです。それ以前に、娘は、母が気に入らない男を好きになることがまずありません。
      もちろん、例外はあります。でも、このことは昔も今も変わらない事実です。これは長年女子校で教えてきた私の実感でもあります。
      ちなみに、娘は母から自由になれたときに、真の意味で「大人」になります。しかし、年を取っていても「大人」になれない娘はいくらでもいます。
      男は、そのことを知っていたのです。だから、母の歌を踏まえて無難な歌を読みました。
      京の貴族として普段読まない題材を使ってまで、母に気に入ってもらえるように。

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