第九段 その六

「京には見えぬ鳥なれば、みな人見しらず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
 名にしおはばいざ言問はむみやこどりわが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、船こぞりて泣きにけり。」

 京では見かけない鳥なのである。渡守にその名を問うと、〈これこそが都鳥だ〉と言う。「なむ」が使ってあるのは、〈この鳥があんたらが恋しがっている都の鳥だっぺ。都の人なのに知らんのけ?〉という気持ちを表している。
 そこで男は歌を詠む。〈お前が都という名を持っているならば(「名にし負はば」)、当然都のことは知っているに違いない。だからさあ問い掛けよう(「いざ言問はむ」)、都鳥よ。私が思う人は生きているのか既に亡くなっているのか(「ありやなしや」)と。〉
名にし負はば」の「」は強意の副助詞。〈ただし〉の「」と同じ。隅田川の〈言問橋〉は、この「言問はむ」から名付けられた。ちなみに〈業平橋〉も。
 男がそう詠んだので、舟に乗っている者は、あの無粋な渡守も含めてみんな一緒にもらい泣きしまった。「こぞりて」は〈全部集まる〉の意。「舟こぞりて泣きにけり」は、「」の擬人化と「こぞりて」が利いている。前で船頭に「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言わせたのは、このための伏線でもあった。
 この段には、四つの歌が詠まれている。
 唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ
 駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
 時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪のふるらむ
 名にしおはばいざ言問はむみやこどりわが思ふ人はありやなしやと

 これは、漢詩で言う起承転結の配置になっている。「時しらぬ」の歌だけが人間が入っていない。これが転である。伊勢物語では長めの段である。漢詩の構成を応用したのだろう。
 男は、失恋の痛手から逃れるために旅に出た。しかし、それでわかったことは、旅はいよいよ恋を恋らしくするということだった。なぜなら、恋は〈孤悲〉(その人から離れて一人悲しむもの)だから。

コメント

  1. すいわ より:

    想い人から遠く遠く離れた地に来て、人の有り様も違う、見たことも無い生き物に出会う。全くかけ離れた世界に来てしまったというのに、名を問えば「都」と。もしかしたら渡守はグズグズとしていた男たち一行をからかうつもりで白鳥を「みやこどり」とうそぶいたかもしれない。でも、男の歌に、この道行がどうしたものか悟らされ、粗野な渡守の心も動かしたのでしょう。
    そして、これは紀行文ではないのですよね。作者が実際に旅して情景を語っているわけではないのに、読み手も主人公一行に随行して旅していると錯覚するほど、旅の情趣が伝わってくる。今更ながら書き手の文才に驚かされます。漢詩の構成を応用しているなんて思いもよりませんでした。

    • 山川 信一 より:

      『伊勢物語』の作者、私は紀貫之を想定していますが、天才です。一字一句もゆるがせに出来ません。

  2. すいわ より:

    業平橋、駅名から外されましたよね。がっかりしたのを覚えています。新しいランドマークが出来たのだからわかりやすく、との配慮とは思うのですが、土地名の「水脈」を最近は簡単に絶ってしまうのは如何なものかと思います。今度の新駅もただの「高輪」で良かったのではないかしら。「芝浜」とか。「名」ってとても大切だと思うのです。「都鳥」が「東鳥」だったら、、、
    新駅が「高ゲー」とか呼ばれるようになりそうで、好ましくないです。

    • 山川 信一 より:

      すべてがお金と効率に支配されている世の中ですから。
      その物差しで測れないものは、価値がなくなっています。
      恋も愛も・・・。だから、正しい教育が必要です。

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