第八段 ~信濃国へ~

 昔、男ありけり。京やすみ憂かりけむ、あづまの方にゆきて、すみ所もとむとて、友とする人、ひとりふたりしてゆきけり。信濃の国、浅間のたけに煙の立つを見て、
 信濃なるあさまのたけに立つけぶりをちこち人の見やはとがめぬ

京やすみ憂かりけむ」は疑問文である。係助詞「」は、問い掛けの意がある。〈京は住みにくかったのだろうか?〉の意。しかし、ここでは、はっきり結論を出していない。本当のところその理由はよくわからないけれどという感じ。〈か〉ならば、詠嘆の意で〈
京が住みにくかったんだろうかなあ。〉とある程度、結論を出している。「」の方が客観性が感じられる。
友とする人」は、友と認める人。気心が知れている友、一人二人だけで旅に出たのである。極めて個人的で他人に知られたくない旅なのである。
信濃の国、浅間の嶽」から第七段(「伊勢、尾張」)よりも遠くに来たことがわかる。続きとして読ませようとしている。
信濃なる」の「なる」は〈に+ある〉が一語化したもので、元の意を表している。つまり、〈信濃にある浅間山〉の意。「をちこち人」は〈遠くにいる人や近くにいる人・あちこちの人々〉。「どがめ(む)」は、〈気にとめる〉の意。「見やはとがめぬ」は反語で、〈見て気にならないのか、気になるに決まっている〉の意。
 この歌が伝えているのは、浅間山の煙がいかにに雄大であるかである。それは誰もが気にとめないことがないほどだと言う。こんな風景は京には無い。つまり、それほど遠くまで来たこと。いかに異国まで来たかを訴えている。そして、同時に京への郷愁をも表している。歌では、その思いを反語によって、表している。ここに表現の工夫がある。

コメント

  1. すいわ より:

    北原白秋の「落葉松」を思い出しました。…たびゆくはさみしかりけり…浅間嶺にけぶり立つみつ…天然自然の大いなるものから受ける印象は時をたがえても変わらないのでしょう。傷心の現実逃避の都人にとって、煙立つ荒涼とした火山地帯の荒々しい風景は決して好ましいものではないでしょうけれど、かえって帰るべき場所がある事を思い起こさせる、ということなのですね。

    • 山川 信一 より:

      私は「猫人間」なので、旅は苦手です。失恋したときは、引き籠もっていました。
      旅にはこんな効用もあるのですね。日常にこだわる思いを相対化してくれるのでしょう。

      • すいわ より:

        「知る」という事は旅する事なのだと、講義に参加させて頂いて、強く思うところです。新たなる発見や気付き、感動、心の充実。
        先生は、そこに居ながらにして、時間も空間も超えて「旅」されているのですね。

        • 山川 信一 より:

          素敵な解釈、ありがとうございます。本当の旅に出たくなりました。
          私は本当の旅を知らない未熟者です。

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