第六段 その二 ~草の露のようにはかない~

ゆく先おほく、夜もふけにければ、鬼ある所ともしらで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥におし入れて、男、弓、胡簗を負ひて戸口にをり、はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひければ、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
 白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを

ゆく先おほく」の「おほく」とは、「ゆく先」までの距離が多くの意で、目的地までの距離が遠いこと。「神さへいといみじう鳴り」の「」は〈雷〉、「さへ」は〈までも〉の意。夜が更けてきた上に雷までも鳴るのである。男は、敵が外から襲ってくると判断して、女を守るためにあばらなる倉に押し入れる。「おし入れて」とあることから、無理矢理そうしたことがわかる。女は嫌がったのだ。よかれと思ったことがそうならないこともある。男女の気持ちがずれてきたことを示している。女は恐怖を感じるままに鬼に食われてしまった。雷の音が大きかったので、男は女の悲鳴(「あなや」)も聞けなかった。夜が明けて見ると女はいなかった。男は足摺をして悔しがって泣いた。その収まりきらない思いを歌にする。
 女が「あれは白玉なの?」と訊いた時、「あれは露だよ」と答えて、私も露のように消えてしまえばよかったのに。死ねば幸せの絶頂で死ぬことができたのだから。
 女が「白玉か何ぞ」と男に聞いたとき、男は女の自分への限りない愛を受け取った。女は嫌々ついてきたわけではない。恋の逃避行の途中で、こんな無邪気な質問をするのであるから。女は心から男を信頼し、身を任せている。男は「女は、なんてウブで、可愛いんだろう。自分が守ってやらねばならない。」そう思った。男はこのとき幸せの絶頂にいた。だから、この時に死んでいれば、こんなつらい思いをせずに済んだと言うのである。ただ、男は不幸のどん底に突き落とされたけれど、草の露のように美しくもはかない恋愛の真実を知ることができた。これは、男が恋愛したからこそ見ることができた世界であった。

コメント

  1. すいわ より:

    儚く、美しい話しだった事を覚えています。宵闇に紛れてひた走る男の背で、月の光に輝く銀色の夜露に目を奪われる姫は、負われているので男の額の玉の汗を見ることはない。一夜明けて、姫を奪われ、打ちひしがれ俯く男は、陽の光を受け輝く金の朝露を見ることもない。すれちがう可哀想な二人、「月の砂漠」みたいに二人揃って行くことは出来なかったのだなぁと思った事を(思っただけで発言してはおりません)、思い出しました。たった一度の授業でやったお話がこれ程印象に残っているものなのですね。
    そもそも男が王子だったら逃げる必要も無いわけで、身分ちがいの恋、まんまと作者の仕掛けたドラマチックな物語にはめられていたわけです。
    今、文字にして改めて書いてみたら、負われている(追われている)姫は、鬼に(親に)食われた(連れ戻された)のだなぁと。男にとっては苦く胸を噛む辛い恋の経験も、美しい物語にする事で昇華させることが出来たのだろうか、と。
    今回も大幅に枠をはみだしました。申し訳ありません。過去の私がこちらに向かって笑って手を振っているような気が致します。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんはとても鑑賞力が豊かですね。素敵な読みです。
      私も見習わないと。私はひたすら言葉に忠実なだけなので。
      鑑賞と創作は正反対の概念ではありません。作品は鑑賞を以て完成するのですから。
      つまり、鑑賞されない作品は何の価値もありません。赤ちゃんにとって夏目漱石の作品は何の価値もないでしょ。
      素敵な鑑賞が素敵な作品を作ります。誰にとっても作品の価値は同じじゃないのです。
      人も同じですね。と言うことは、恋もそうですね。

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