第四段 その一

 昔、東の五条におほきさいの宮おはしましける西の対にすむ人ありけり。それを、本意にはあらで、心ざしふかかりける人、ゆきとぶらひけるを、正月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。あり所は聞けど、人のいき通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。またの年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。
 月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりけり。

 「男ありけり」で始まっていない。この段は前後の段と系統が違うかも知れない。しかし、編集意図から、これも二条の后に関する話であることに間違いない。同じ男の話として、読むことにする。「東の五条におほきさいの宮おはしましける西の対にすむ人」とあり、二条の后とは書いていない。それは、まだこの人が后ではないからである。「おほきさいの宮」は、皇太后宮のことで、二条の后の叔母に当たる人。そこで、この人が二条の后になる人であることがわかる。「西の対」は寝殿造りの西の棟。「人ありけり」「心ざしふかかりける人」と「」が使われているのは、「人のいき通ふべき所」の「」に合わせたのである。そろえた方がすっきりするので。
本意にはあらで」は、どこに掛かるか。「本意」は、〈かねてからの望みや目的〉の意。候補は次の三通りである。
⑴「心ざしふかかりける
⑵「ゆきとぶらひける
⑶「心ざしふかかりける」と「ゆきとぶらひける」の両方。
 ⑴の場合、意味は次のようになる。
 この女は、「東の五条におほきさいの宮おはしましける西の対にすむ人」である。身分が高い。身分違いであるので、初めは止めておこうと思った。身分違いの恋を元から望んだわけではなかったのだ。しかし、ひとたび恋をすれば、恋はそれを許さず、不本意ながらも深みにはまってしまった。これで意味が通る。
 ⑵の場合、意味は次のようになる。
 身分違いの恋であるから、逢瀬は思い通りに行かない。つまり、なかなか思い通りに〈ゆきとぶらふ〉ことができない。様々な障害があり、「本意」通りには進まないのだ。これでも意味が通る。
 ならば、⑴と⑵のどちらがいいのか。⑴なら問題ない。そのまま素直に読めばいいのだから。しかし、⑵ならば、なぜ次のように書かなかったのか。
〈それを、心ざしふかかりける人、本意にはあらでゆきとぶらひけるを〉
この方がずっとすっきりする。しかし、そうしなかったのは、「心ざしふかかりける」にも掛かけようとしたからである。
 したがって、正解は、⑶である。「本意にはあらで」がどちらにも掛かるようにここに置いたのである。
ほかにかくれにけり」とある。その場所は、「人のいき通うべき所」ではなかった。その場所は、御所である。この女は、帝に仕えることになったのである。「かくれにけり」とあることから、そこにこの女の意志が働いていたことを暗示している。〈かくる(=隠れる)〉は意志的行為である。女は、自分の意志でこの恋を止めようとしたのだ。つまり、この段階では、男はふられたことになる。

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